イードルアドハーのフトバ(日本語版)

アッサラームアライクム ワラハマトゥッラーヒ ワバラカートフ

       
  犠牲祭イードルアドハーのフトバの日本語訳

前半部と後半部に分かれています。

<前半部>

 超越せしかな、至高なるアッラーは次のように仰せです。

 「汝らの主はご自身を慈悲性、つまり、やさしさで形容し、記述したもうた」(6章:54節)

 アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラー以外に神はなく、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、全ての称賛はアッラーに属す。

 また、超越せしかな、至高なるかのお方は次のように仰せです。

 「わが慈悲(やさしさ)は全てのものを包み込む」(7章:156節)

 アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラー以外に神はなく、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、全ての称賛はアッラーに属す。

また、聖預言者(彼に平安と祝福がありますように)は次のように仰せになった。「超越せしかな、至高なるアッラーが全ての創造を為し終えたまわれた後に、彼の許にある玉座の上にこう書き記したもうた。『わが慈悲はわが憤怒に勝る』と」これはイマーム アル=ブハーリーの伝える伝承である。

 アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラー以外に神はなく、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、全ての称賛はアッラーに属す。

 また、イマームムスリムが伝える伝承において、聖預言者(彼に平安と祝福がありますように)は次のように仰せになった。「まことにアッラーの慈悲は全体で100からなっているが、その100分の1の慈悲はジン、人間と動物たちに降り注ぐ。互いに憐れみ深く、慈悲深い(やさしい)。野獣さえも子供を慈しむ(かわいがる)ように。しかし、その100分99は審判の日におけるしもべたちのために残してある」

イマーム アル=ブハーリーとイマームムスリムが伝える伝承において、ウマル イブンアルハッターブ(アッラーが彼に満足なさいますように)がお伝えになるには、「捕虜たちが聖預言者(彼に平安と祝福あれ)の許に運ばれた。その捕虜のうちのある女性が息子を捕虜の内に見つけ、抱き寄せ、授乳した。その時、聖預言者(彼に平安と祝福あれ)が『このような女性が息子を火の中に投げ捨てるように見えますか?』とお尋ねになった。私たちは、『いえ、アッラーに誓って、それができたとしても、火の中に投げ捨てることなどあろうはずがありません』と答えた。」

アッラーの慈悲(ラフマトゥッラー)とは次のように明らかにされている。罪にまみれようとも、タウバし(悔い改め、立ち返り)、善行を尽くすことで、罪を善きもの、善行に変えてくださる。

超越せしかな、至高なるアッラーは次のように仰せです。

「タウバし(悔い改め、立ち返り)、信仰し、善行を尽くすものは別である。アッラーは彼らの罪・悪行を善きもの、善行に置き替えになる。アッラーこそ、よく赦し、慈悲深い御方。」(25章:70節)

また、アッラーの慈悲(ラフマトゥッラー)とは次のようにも明らかにされている。善行については、それを行った者に対して、アッラーのもとで10倍から700倍、さらに数多く倍加してくださるが、悪行については、もし実際に行わなかった場合は善行一つ、行っても悪行一つとしか記録なさらない。

 超越せしかな、至高なるアッラーは次のように仰せです。

 「善行を携えてきた者には10倍の報奨を授けるが、悪行を行った者にはそれと同等のものだけ報いを受ける。彼らは不当に扱われることはない。」(6章:160節)

 超越せしかな、至高なるかのお方はさらに次のように仰せです。

 「まことに、善行は悪行を追い払う」(11章:114節)

 アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、アッラー以外に神はなく、アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、全ての称賛はアッラーに属す。

イマームティルミズィーが伝える伝承のおいて、伝承の鎖に対する評価はハサン(良好)というものですが、聖預言者(彼に平安と祝福あれ)は次のように仰せになったという。「アッラーは仰せになった。『アーダムの息子よ、誠に汝らは我に対して、呼びかけ祈り、救済の希望を失わない限り、われは汝らを赦そう。汝らがなしてしまったことについて問わなかったことにしよう。アーダムの息子よ、もし汝らの罪が天の雲ほどに達するものであっても、その時、我に赦しを乞うならば、汝らを赦そう。アーダムの息子よ、もし汝らが地上に達し満たすほどの過ちを携えてきたとしても、汝らが我に謁見した際に我をいかなるものとも比較せず、形容しなかったならば、地上に達し、満たすほどの赦しを汝らに携え応えようではないか』」

 この聖伝承(ハディース クドゥスィー)では、ハディース クドゥスィー(聖伝承)とはクルアーン以外で聖預言者(彼に平安と祝福あれ)に超越せしかな至高なるアッラーが直接語られた伝承であるが、

この聖伝承(ハディース クドゥスィー)では、他のいかなる言及よりも、明白にアッラーの慈悲の属性と性質が明らかに示されている。まことにかのお方こそアッラハマーン(慈悲深い)御方であり、アッラヒーム(慈愛深い)御方なのである。私たちは現世と来世委においてかのお方の恩恵と慈悲がさずかることを祈らざるをえない。

<後半部>第二部のフトバ

超越せしかな、至高なるアッラーは次のように仰せです。

 「言え、わがしもべたちよ、自身の自我、魂、に関して法外であったとしても、アッラーの慈悲に絶望しないならば、まことにアッラーは全ての罪を赦そう。彼こそはよくお赦しになる御方であり、慈愛深いあかたであられる。」(3章:53節)

 イマームブハーリー、イマームムスリム、両サヒーフ正伝集に収められている伝承において、アブドゥッラーイブンウマル(アッラーが彼に満足しますように)が次のように聖預言者(彼に平安と祝福あれ)がお語りになるのをお聞きになったという。「信仰者は復活の日、威力、権威並びなき主に庇護(かばい守られる)まで近づく。主は信仰者を包み、赦したまう。そして、信仰者に自らの罪を認めさせたまう。主はお尋ねになる。『汝は罪を覚えているか?』と。すると、信仰者は『我が主よ、覚えております。』と応える。主は語りかけたまう。『まことに、現世において、われは汝を包んだ。今日、汝のため、汝の罪を赦そう。』そして、善行を書きとめられたページを授かる。他方、不信仰者と偽信者に関しては、全ての創造のなされる前において、彼らみなは呼び出されて主であること認めていたので、それらの者は主に対して嘘をついているのは明白であり、不義なる者にアッラーの呪いがふりかからないことがあろうか」と。

 アッラーの慈悲にすがりましょう。貴方達が絶望する必要がないくらい、慈悲深いのですから。

 真の信仰者は救済の希望と懲罰の恐怖の中間に留まっている。
 それは超越せしかな、至高なるアッラーの御言葉にあるとおりである。

 「預言者よ、我が僕たちに明らかにするとおりに、誠にわれはよく赦す方であり、慈愛深い御方である。我が懲罰は痛烈(激しく痛い)懲罰である。」(15章:49節)

 私たちは、超越せしかな至高なるアッラーに、私たちのあやまちと罪の数々を赦され、その慈悲を授かり、天国に入れてくださることを祈る。アーミーン。

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